鎮守府新聞ワレアオバ│Naval District Newspaper Ware Aoba

遠征報告:旧横須賀鎮守府に潜入しました! (2/2)
2015.10.03

午後のツアーはまず案内役の軍人さんとの交流タイム。

男性はジョナサンさん。
基地内のセキュリティの仕事をしているそうです。
いわゆる憲兵とかそういうお仕事でしょうか?

女性はサンダースさん。
基地内の福祉関連の仕事をしているとのことでした。

2人とも日本の文化に興味があり、日本の基地への赴任を希望してきたそうです。
米海軍では日本への赴任を希望する方は多いのだとか。

青葉が別なところで聞いた話では
退役したのちも日本在住を望む元軍人は結構いらっしゃるようです。

日本に赴任した米兵さんたちの中では富士山に登ることが一種のステータスらしく、
日本に来て富士山に登らなかった人は居ないようなことをおっしゃってました。
まあ在日米軍も富士山の意匠をよく使ってらっしゃいますから、気になるんでしょうかねえ。


ツアー再開。

嘉永6(1853)年、江戸幕府の鎖国政策に風穴を開ける4隻の黒船艦隊が浦賀に来航。
その旗艦だった「サスケハナ」は基地内の通りの名称になっています。


サスケハナって名称だけ聞くと日本語っぽい印象がありますが
ネイティブアメリカンの言葉で「広く深い川」を意味するそうです。
ペンシルベニア州にはサスケハナ川があり、それに因んだ艦名とのこと。

ちなみに4隻の艦名はサスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマス。
幕末の狂歌では「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」と詠われていますが、
このうち蒸気船だったのはサスケハナ、ミシシッピの2隻だけで、サラトガとプリマスは帆船でした。

しかしながら当時の日本は『大船建造の禁』という方があり、
一番大きな船は千石船(排水量:約200トン)程度。
サスケハナの排水量が3,824トンですから約19倍となるそうです。


比較図 (出典:「船の科学館 資料ガイド4 黒船来航」

ヤックデカルチャー!

その約90年後には日本も戦艦大和(基準排水量:64,000トン)を建造出来る
技術をもつまでに成長しましたが、 それでもサスケハナの16倍程度ですからねえ。
当時の驚きは計り知れないものでしょうね。
(物珍しさに多数の見物客が船を出したとも聞きますけどね)


続いて将校クラブへ。

『将校クラブ』(Admiral Arleigh A. Burke Officers' Club)

建物の名前にあるアーレイ・バーク海軍大将(退役時)は先の大戦で活躍し、
戦後は海上自衛隊創設に尽力をされました。
ミサイル駆逐艦の艦名由来にもなっていますね。

ちなみにアーレイ・バーク提督は最大船速30ノットの自艦隊に「31ノットで敵に突撃!」と命令し、
「31ノット・バーク」の異名をとったそうです。
旗下には「ダイソン」という駆逐艦も居ました。

将校クラブには上級将校向けにレストランやBAR等があるそうです。
青葉の時代だと『水交社』みたいなものでしょうかねえ。


将校クラブの前には旧軍時代に設置された方位盤がありました。
パラオとか布哇(ハワイ)とかあるのが時代を感じます。

すぐそばに建立されていた
『皇太后陛下行啓記念の碑』
皇太后とは昭和天皇の母、貞明皇后の事。

横須賀海軍工廠で軍艦が建造されると天皇陛下または名代の皇族が臨席される決まりがありました。
青葉の記憶では重巡妙高・鈴谷の進水式には昭和天皇、
重巡高雄の進水式には香淳皇后が臨席されています。

その関係なのかなあと思っていたのですが、
昭和16(1941)年に横須賀に行啓された記念に建立されたそうです。
(どのような目的で行啓されたのかは不明)

『紀元2600年記念庭園の石碑』

昭和15(1940)年に満州国皇帝「溥儀」さんが海軍病院を訪問しました。
ちょうどその年は紀元(皇紀)2600年にもあたり、
訪問と2600年を記念して庭園が造られたことに由来するそうです。

現在の横須賀海軍病院。


旧海軍病院も一部まだ現役で使用されており、そちらにむかいます。


ところどころ建物に古い意匠が見えます。

途中に『皇后陛下行啓記念の碑』がありました。

こちらは昭和12(1937)年に香淳皇后が海軍病院の傷病兵を見舞った記念に建立されたそうです。

隣の建物は『奉安殿』

昭和天皇と香淳皇后の御真影(写真)を置いていたそうですが、いまは何もありません。

奉安殿は学校にあるものという認識だったのですが、こういう場にもあったんですねえ。
各学校にあったものは戦後の廃止を受けて撤去されましたが、
こうして残されているのは米軍敷地内にあったからだろうとのことです。

そして『旧海軍病院』

こちらは今は研究機関として使用しているとのこと。

当時の銘板がまだ残されています。



通りをわたり、小高い丘を上がると、海軍時代に作られた壕がありました。
基地内には無数の壕があったようですが、10年ほど前に安全性の確認をして危険なところは塞ぎ、
現在使用しているのは3か所とのこと。

使用しているところも軍事機密なので
中がどのようになっているか詳細は良くわからないとの説明でした。

その隣には『FLUCKEY HALL』

第7潜水艦群で編成される第74任務部隊の司令部です。

名前の元となったのはユージーン・ベネット・フラッキー海軍少将(退役時)
大戦中、ガトー級潜水艦「バーブ」艦長として多大な功績を上げたそうです。
空母雲鷹(艦これ未実装)がバーブによって撃沈されています。

青葉としては同朋の仇のような方ですけど。
恩讐は彼方に置いておきます。

フラッキー提督は米軍の狼群戦術について
具体的な方法を記した著書を残されていることでも知られています。


すぐ近くにある『米海軍横須賀基地司令部庁舎』



旧横須賀鎮守府会議所・横須賀海軍艦船部として使用されていました。
現在は1階を司令部庁舎。2階を多目的ホールとして使用しています。

1階の通路に旧海軍や米海軍の展示がされていて見学させてもらいました。












そしてついに
『在日米海軍司令部及び極東司令部庁舎』

かつての横須賀鎮守府庁舎です。

司令官の執務室は(設定上)ここにあるんですけどね。


正面右側の3階部分はかつては窓があったそうですが、機密を扱う部署を置いた関係で塞がれたとか。

彩色された絵葉書などみると外壁は煉瓦色ですから
米海軍が外壁などを変えている可能性もあるようです。

前述のとおり正面ゲートから割と入ってすぐのところにあります。


庁舎からゲート側に下ったところにある
『基地内労働者感謝の碑』

こちらは戦後基地内で働いた日本人労働者に対する感謝の碑だそうです。

最後に司令官たちが案内役の軍人さんたちと記念撮影してツアーは解散。
時間は14時半を回ったところでした。


ちょうどいい時間でもありましたので、青葉、行っちゃいました。

『居酒屋空母信濃』

鎮守府新聞ワレアオバの元は司令官(提督)向けの横須賀紹介本の1コーナーで
艦これ向きな飲食店やお土産屋さんを紹介したものでした。
居酒屋空母信濃も記事としては紹介しています。

しかしながら青葉は初入店なのです。



15時という居酒屋としては比較的早い時間から開いているのですが
それにもなかなか合わなかったこともありまして……

とはいえ、都合によりお酒が飲めませんので、つまみ数点とジュースを頂いただけですが。

お酒が飲めない人に向けたメニューがもう少しあるといいですねえ。
……居酒屋のアイデンティティを否定してますね。
また別の機会にお酒もいただきに行きます。



もうちょっと何かが欲しいねということになり、
そういえばチェリーチーズケーキって食べたことないという話になり、
横須賀海軍カレー本舗の2階の店舗で頂くことにしました。

「ヨコスカチェリーチーズケーキ」は横須賀グルメの一つ。
米海軍横須賀基地がニューヨークスタイルチーズケーキをプロデュースし、
2009年11月18日にレシピ提供されました。

チェリーは(桜=日本の象徴)を意味し、日米の友好のグルメブランドとして誕生したそうです。

まあ青葉の時代にはないものでしたので、これまで取材もしたことなかったのです。

横須賀海軍カレー本舗さんのはチェリーチーズケーキとソフトクリーム、飲み物が付きます。
ソフトクリームはバニラとカレーが選べました。

カレーソフトクリームは1階でも販売しています。
せっかくだからカレーを選びました。

チェリーの酸味、濃厚なチーズケーキの甘み、ソフトクリームのサラリとした甘み
美味しいものですね。
味が濃厚なので、飲み物は甘くないものを頼むといいと思います。

今日は色々充実した一日を過ごすことが出来ましたねえ。

以上、青葉でした。

横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念事業 日米親善ベース歴史ツアー(第3回)

事前応募制
開催日:2015年10月03日(日)
URL:http://www.cocoyoko.net/event/20151003%20besetour.html


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