鎮守府新聞ワレアオバ│Naval District Newspaper Ware Aoba

遠征報告:霞ヶ浦海域(筑波海軍航空隊記念館)おかわり
2016.03.13


爆撃機の風防ガラスを使用して作られたペンダント(筑波海軍航空隊記念館展示品)

どうも、青葉です.

2年ぶりに茨城県の友部にやってきました。
お目当ては筑波海軍航空隊記念館。

当初2014年5月6日までの限定公開だったのが
延長を続けて昨年12月20日に2周年を迎えました。

青葉が以前に取材に行った後も地下戦闘指揮所が公開されたり、
掩体壕から零戦の尾翼部分が発見されたりとあったようです。

最近取材に付き合ってくれているごむを司令官が行ったことが無いというので、
じゃあ、リボルテックの零戦ダンボーが発売されたら持って撮影に行きますか。
などと言っていたら、
3月末に終了かもしれないという話が耳に入ってきました。

4月以降の延長申請を出しているという話もありましたが
その後の朗報は聞かれず。

2月末に発売された零戦ダンボーを携えて記念館に向かうことになりました。



友部駅に到着。

地下戦闘指揮所跡が少し離れていることもあって
駅近くでレンタカーを借りることも検討しましたけど、
結局今回も徒歩で記念館へと向かいます。

まあ地図を見ながら向かった2年前と異なり、
風景はほとんど変わっていませんので20分ちょっとで記念館に到着。


徒歩だと正面口方面は遠回りなことは知っていましたので
今回も裏口から入ります。

なぜか記念館のあるこころの医療センターの駐車場には
ポルシェが多数停まっていました。
ポルシェ軍団で記念館に来たんですかねえ……?



天気があいにくの曇天。
雲の色も濃く雨になると地下戦闘指揮所跡が公開中止になるかもしれないと考えて
先に向かうことにして記念館の受付で地下戦闘指揮所に入る共通券を購入。

入口で出発時間を打合せしている集団とすれ違いました。
もしかしてポルシェの人たちですかねえ……?


途中、当時の隊門がありました。

正面口から抜けて地下戦闘指揮所跡の方に向かっていると
独特のエンジン音とともにポルシェが次々と青葉たちを追い抜いて行きます。
やはりあの人たちはポルシェの人たちだったんですねえ。


徒歩15分ほどで指揮所跡の駐車場が見えてきました。
ポルシェ軍団が駐車してました。やはり。


地下指揮所は林の中にあります。
こちらは今は個人の土地らしいです。

昭和20(1945)年2月以降に筑波航空隊周辺でも空襲を受けるようになったことから
新設の地下壕に戦闘指揮所を移転させたとのことです。


ちなみに地下壕はこんもりとした丘のような外観となっていて
その上には木々が覆い茂っているのですけど、
最初に窪みを掘って、そこに鉄筋コンクリート製の構造物を作り、
最後に土盛りをして完成させたとのこと。


南北に延びる2本の通路の間に5部屋と独立して1部屋の計6部屋があり、
南北の通路の端4か所が出入口となっていたそうです。
現在は入場口となる1か所以外は閉鎖されていますけど。


入場口で懐中電灯とヘルメットを借りていざ入ります。
ちなみに青葉は入った途端に頭を打ちました。ヘルメット大事!


入ると左手に16畳ほどのかまぼこ型の部屋。
天井には幾筋もの線状の窪みがあり、
木片らしきものがところどころ残っていたりするのですが
何のためのものなんでしょうねぇ。


通信用のケーブルを通したりする穴などが
壁のところどころに空いていたりします。


南北に並んだ部屋から一つだけ離れた部屋は通信室だったということで、
床に通信機を置いたと台座思しきものが。
この部屋の天井の縦穴は今も外に通じているというので覗いてみると
確かに外が見えますねぇ。

その他、色々と写真を撮ってきました。





地下指揮所から出てすぐ近くにある地下応急治療所へ。
こちらは昨年(2015年)に発見されたのだそうです。
何でも地主さんが土地を成らそうとしたら埋まっているのを発見したのだとか。



ロープを張られた林の中を進むと地中に小屋のようなものがありました。
どうやらこれのようですねえ。

大きさは8畳程度ですかねえ。案外狭い?
応急治療のみならまあ何とかなるんでしょうけど。


埋まってますけど正面に明り取りの窓があって、
左右には水はけ用の溝がありました。


ひと気のない林の中にあるせいもあって
何と言うかホラーゲームかサスペンスドラマ臭を感じてしまいますね

何だかんだでテンション上がってこの施設に1時間近くいました。
なお、実際の見学時間は15分もあれば充分だと思います。

地下戦闘指揮所跡

※私有地です。振る舞いにはご注意ください。



つづいては滑走路跡に行きます。

筑波航空隊の滑走路は戦後は道路として転用されました。
しかしかなり形がわかるような痕跡が残されています。

終戦直後の様子

国土地理院:整理番号【USA-R1062-105】
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=199366

近年の様子(2012)

国土地理院:整理番号【CKT20125-C29-26】
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1536025

実地ではこのような感じです。


2車線の道路として残されていますが
零戦五二型の全幅は11mだそうなのでギリギリすぎますね。

「筑波海軍航空隊友の会」さんの資料によると40mほどあったみたいですので
形が残っているとはいえ狭まっているようですね。

滑走路跡


気が付けばいい時間になっていましたので
記念館に戻る途中で見つけた冬茹(とんくう)飯店にて昼食。


ラーメン・マーボ丼セットで700円。
お得な値段ですね。

なんというかラーメンがすごくラーメンでした。
醤油ラーメンを想像した時の味がそのまま出てきた感じです。
今時のラーメンとは違う方向性ですが美味しかったです。
マーボ丼も辛みと酸味が絶妙にまじりあって良いです。

冬茹(とんくう)飯店


昼食を終えて記念館に戻ります。

途中、『筑波海軍航空隊 ここにありき』の碑がありました。

平成11(1999)年に遺族会にあたる「筑波海軍航空隊友の会」の方々と
関係者によって建立されたそうですが、
記念館となっている司令部跡周辺は県の所有地になっており、
茨城県側は敷地内に慰霊碑の建立を認めず、
敷地を臨む少し離れた場所に建立せざるを得なかったようです。

ちなみに記念館も茨城県の所有地にあり、
映像を利用した町の活性化と文化発信を目的とした市民団体「プロジェクト茨城」さんによる
自主運営で開館しています。

『筑波海軍航空隊 ここにありき』の碑



記念館に戻ってきました。

2年ぶりの来訪ですけど、だいぶ展示が増えていました。
そのせいか展示スペースが少し拡張されたようですね。



予科練関連の展示。



海軍を絡めて当時の様子が分かる資料。


金剛の砲撃手だった方の遺品展示。
ちなみに金剛のカップですが、昨年衣笠で軍艦比叡展を開催したeclairさんが
同じものを持っていらっしゃいました……ヒエー





様々な軍用機のプロペラやエンジン。
大艇ちゃんのもありました。


零戦の尾翼部分。


終戦直前に横須賀・追浜付近で実験がされていたという
秋水の陶器製燃料タンクがありました。

模型展示の部屋
何故か霧の艦隊まで……







青葉が無かったです!訴訟!


映画にて訓練生が集められていた部屋は元は司令官室だったそうです。

その隣には副司令官室。

司令官室の壁は今は濃茶に塗られていますが
「永遠の0」を撮影した時は副司令官室と同様に白く塗られていたそうです。
職員さんの話では「ジョーカー・ゲーム」という映画の撮影に使用された際に
今の色に塗られたという話です。

青葉の2年前の記事見ると、すでに同じ色でした。
白く塗っていた時の様子を探して……何とか発見しました。

里山讃歌│筑波海軍航空隊

2013年12月ということは開館したばかりのころのようですね。
青葉は翌年の3月に来ましたので、塗られたばかりのころだったんですねえ。

つくりそのものは当時のものがそのままなので
細かいところまで装飾がなされていたりと贅沢に作られています。


海軍のマークが入った戸棚があったので、当時のものなんですか?と聞いたら
これは映画で使用したものの置き土産とのこと。

その隣は「永遠の0」では病室として使用された部屋です。

作中の病室がそのまま残されているのかと思いきや、
職員さんの話では「永遠の0」の撮影終了後にベッドなどの道具は
全部引き揚げてしまったそうです。
そこで病院の方でいらなくなったベッドを譲り受け、
高さが違うのを揃え、色も塗り直して置いたのだとか。
置かれている外套も職員さんが用意したとのこと。

そういう尽力があってこその、来訪者が楽しめる環境ですね。
ただ部屋だけを公開されているだけでしたら、何だかわかりませんからねえ。
ちなみに昨年放映されたテレビ東京版の「永遠の0」では
このまま撮影されたそうです。

また、他にも数々の映画で使用されたそうで、
ドイツで伝染病と奮闘した日本人医師の話の映画……というので調べてみました。

おそらくは先の大戦直後のドイツ・ヴリーツェンでチフスの治療に奮闘し、
現地で亡くなられた肥沼信次さんの話だと思われますが、
マンガにはなっているものの(但し休載中の模様)
映画にはなっていないみたいです。

2015年8月11日に放送された、テレビ東京の「ありえへん∞世界」にて、
肥沼信次さんが取り上げられたそうなので、
その再現映像の撮影なのかもしれませんねえ。
夏場の撮影だったのでチフスの発疹の化粧が汗で流れ落ちて大変だったとか。

職員さんの話ではつい先日も岡田准一さんが撮影のために来たそうです。
もしかして今度映画になるという「海賊とよばれた男」でしょうかねえ?

以前は週末ティーラウンジになっていたところはイベントルームになっていて
時折、当時のことを語る講演会などが行われているようです。

6畳分くらいの大きな「永遠の0」のポスターが飾ってあって、
職員さんに頼むと記念撮影をしてくれます。


提督以外立ち入り禁止な部屋?
入ってみると……

どこかで見たことのあるような部屋ですね(笑)




提督日誌があったので、
青葉が来た足跡を残しておきます。

あれやこれやとしているうちに閉館時間となってしまいました。
最後まで居続けたのは青葉たちでした。

記念館を出たのち
地下戦闘指揮所に向かう途中に見つけた遺構へ

筑波海軍航空隊の守護神社だった筑波神社の跡とのこと。
敗戦後に気を利かした地域住民によって破棄されたようです。
まあ横須賀でも結構ありますねこういうのは……

最後に供養塔へ。

こちらは昭和13年から司令を務めた古瀬貴季中佐の指示で
訓練中に亡くなった隊員の為に建てらたそうです。

古瀬中佐はフィリピンで連合軍に捕らえられて
BC級戦犯として死刑判決を受けてしまいますが、
「ああ、モンテンルパの夜は更けて」のレコードを出した渡辺はまこさんが
戦犯の減刑を嘆願し、恩赦によって帰国されています。

ちなみにこんな曲です

補足するとこの曲は
元フィリピン憲兵隊少尉の代田銀太郎さんが作詞、
元陸軍将校伊藤正康さんが作曲された
「モンテンルパの歌」が元になっています。
ほとんど原曲からの修正は無く、題名のみ『色をつけた』とのこと。

お二人ともフィリピン・マニラ郊外のモンテンルパの丘にあった
ニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物だそうです。

この刑務所には戦犯として111名が収容され、
渡辺さんが曲を受け取った昭和27(1952)年までに14名が処刑されていました。
こののち渡辺さんが奔走して
現地での慰問コンサートなどを行ったことでフィリピン当局が動き、
昭和28(1953)年に特赦によって収容者たちは解放されて日本に帰国したそうです。
補足の方が長いですね(汗)


筑波海軍航空隊記念館が
4月以降も延長できるかどうかの結論は3月25日に出るのだそうです。
すごくギリギリですね……

戦争の記憶を語り継ぐことは大変意義のあることです。
三度、青葉が訪れるかどうかはわかりませんけど
今後も存続して欲しいと願うばかりです。

以上、帰りがけに納豆を買った青葉でした。

追記:
3月24日に平成28年4月1日以降の公開の延長が決まりました。
残念ながら地下戦闘指揮所はいったん公開終了とのことです。

筑波海軍航空隊記念館(県立こころの医療センター敷地内)

開館時間(記念館):基本年中無休・9時~17時
  (地下指揮所):土日祝日のみ・11時~15時半
入館料(記念館+地下指揮所):おとな800円 / こども550円
URL:http://www.p-ibaraki.com/tsukuba

SpecialThanks:
写真協力:ごむを司令官

青葉写真館
本文で紹介できなかった写真たち

すき家とのタイアップキャンペーンでラッピング店舗となっているアキバ田代通り店に寄ってきました



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