鎮守府新聞ワレアオバ│Naval District Newspaper Ware Aoba

遠征報告:日本最古のドライドックを見てきました
2016.11.03

どうも、青葉です。

日本の近代化に重要な役割を果たした横須賀製鉄所(造船所)の歴史を振り返るため、
米海軍横須賀基地内にあるドライドックを徒歩で見学するツアーが開催されました。

事前申込制で30分間隔、12回実施。各40名(合計480名)の参加枠。

青葉が申し込みをした9月下旬(締切は9月29日)では、
申込み番号が2000少し手前でした。
それから推測すると4倍少しぐらいの倍率ではないかと思われます。

6月に放映されたブラタモリ横須賀編(2016/6/18放映)でもドライドックの紹介がありましたねえ。


あの後に1号ドックと3号ドックに扉船を開放して海水で満たし状態が続いています。

風雨による劣化が進んでいるという話も聞いているので、その予防策なのかもしれませんが、
詳細は不明。


ショッパーズプラザに設けられた受付で受け付けを済ませると
見慣れないパンフレットをいただきました。
米海軍の内部従業員向けなんでしょうかねえ?


ちなみに今回入場するのは、
ショッパーズプラザの脇に設けられているダイエーゲート(Daiei Gate)。

そもそもここはかつて横須賀海軍工廠の船台があった場所でした。
こちらでは
「比叡」「山城」「陸奥」の戦艦(「比叡」は巡洋戦艦)
「高雄」「妙高」「鈴谷」の重巡
「天龍」「能代」の軽巡
「翔鶴」「飛龍」「雲龍」の航空母艦
「祥鳳」となる「剣埼」や、「龍鳳」となる「大鯨」の潜水母艦が建造されました。

「赤城」の姉になるはずだった「天城」はこちらで関東大震災に被災・解体されました。

※関東大震災で被災した「天城」(wikipediaより取得)


今もガントリークレーンの台座部分は残されていますが、
青葉が横須賀の取材を始めた2年くらい前は立ち入り禁止となっていました。

昨年ごろからその立ち入り禁止が解除されたので、
船台の跡を見られるようになったーと歓喜していたのですけど。

ここに米軍基地の簡易ゲートを設けたという実に現実的な理由からだったんですね。
※調べたところ、ゲート自体は昔からあったようです。通行路を整備した感じなのでしょうか?

仮にも軍事基地の敷地に入るので、チェックを受けて入場。


まずガイドさんから説明や注意事項を受けます。

そもそも横須賀製鉄所(後の海軍工廠)は
日米修好通商条約の批准書交換のために渡米した小栗上野介忠順公
ワシントン海軍工廠を見学し、
日本にも造船施設を作るべきだという考えに至った事に起因するそうです。

同じタイミングで咸臨丸で渡米した勝海舟は、
「船なんて外国から買えばいいじゃん」と主張したとのことですが、
小栗公の意見が通ります。

当初はアメリカに支援を要請したそうですが、
折しも南北戦争が始まり、日本に支援するどころではなくなってしまいました。

ちなみに遣米使節が渡米したのは1860年。
南北戦争は1861年~65年。

南北戦争終結により余った武具がグラバーを通じて薩長に渡り、
倒幕に使用されたという話を聞いたことがありますので、
南北戦争の始まりと終わりがズレていたら日本の歴史は変わっていたかもしれませんね。

閑話休題。

幕府の要請に応じたのはフランスでした。
若干26歳のレオンス・ヴェルニーを首長として派遣……
とは言われておりますが、
個人的には極東の島国にベテランは来たがらなくて、
若い連中が一山当てようときたんではないかと邪推。

ヴェルニーさんには現在の価値換算で1億円の年俸が与えられたそうです。


まずは1号ドック。
ブラタモリ横須賀編でタモリさんが底に降りたのがここです。


残念ながら、やはり海水で満たされています。

1号ドックは慶応3年(1867年)に建設着工。
設計はヴェルニーさんとその部下L.F.フロランさん。

もともとの設計図では海を埋め立てた場所に建造する予定だったそうですが、
ヴェルニーさんが設計中に地震を経験したのかどうか、
強固な地盤に建設するように変更され、山を削って造成した場所に建設されました。
この判断のおかげもあり、後の関東大震災にもドックは耐えることが出来ました。

建設現場からはナウマン象の下顎の化石が日本で初めて発見されています。
(ナウマン象と命名されたのはだいぶ後ですが)

江戸幕府の大政奉還を経て王政復古が宣言され、
ドックは新政府に接収されますが、新政府の命により建設事業は継続されます。

なお製鉄所を建設に決定を下すにあたり、
ある幕臣(佐渡奉行・鈴木兵庫頭重嶺とされる)が
「幕府の運命もなかなかむつかしい。費用をかけて造船所を造ってもそれが出来上がる時分には幕府はどうなっているかわからない」
と言ったのに対し小栗公は
「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」
と答えたと伝えられています。
詳細はこちらをご覧ください。

1号ドックは真鶴から熱海付近の山から採掘された石を使用してセメントで固められていますが、
当時はセメントは全部輸入に頼っていたため、石の代金の3倍かかったそうです。
DASH島で使ってた三和土とかじゃダメだったんですかねえ。

完成は明治4(1871)年。
小栗公は慶応4(1868)年、明治新政府軍により斬首されていますが、
残された1号ドックは日本の近代化に大きく寄与します。

現存のものは昭和10年~11年に延長工事が行われ、
船首部分はコンクリート製になっています。


2号ドック。






名前は2号ですが、建設されたのは3番目。

設計はフランス人建築課長ジュエットさん。
このころヴェルニーさんたちは契約満了でフランスに帰国しています。
ところがこのジュエットさんも起工前に契約満了で帰国。

ヴェルニーさんの発案で製鉄所内に設立されていた
技術者養成施設、黌舎(こうしゃ)で学んだ恒川柳作さんが
施工管理者となって、明治13(1880)年に着工。

恒川さんはこの後に横浜船渠、呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府で
ドライドックの設計に携わりました。
以前の記事では恒川柳作さんを設計と記述していましたが、誤りでした。

大型船舶用に建設され、明治17(1884)年に完成した時は東洋一の巨大ドックでした。
今も海上自衛隊の掃海艇などが入渠していることがたまにあります。

こちらは水に満たされていない状態でした。


3号ドック。


1号ドックの完成してからすぐの明治4(1871)年に着工。
設計は1号ドック同様にヴェルニーさんとフロランさん。

明治7(1874)年に完成。
こちらは小型船舶用に建設されています。

ドライドックを効率的に運用するために大中小と建設するのが当時の常識だったようです。

そのため、1号と3号の間にはもう一基ドックを作れるようにと
初めからスペースが用意されていたとのこと。

こちらも1号同様に海水が入れられていました。



3号ドックの隣には「海上自衛隊第2潜水隊群基地」があります。
すぐそばにおやしお型の潜水艦が停泊していたのですが、
潜水艦は撮影してはダメとのことで、3号ドックを撮影する際も
フレームに入れないようにと注意をされました。

まあ、軍事機密の塊ですからね。


(基地の外からは普通に撮れました)


ドックは6号までありますが、今回の見学では3号まで。



最後にCPO(下士官)クラブとして利用されている旧横須賀海軍工廠庁舎の外観を見学。

時間となり、解散となりました。

今はなかなか見学する機会が無いのですけど
日本遺産の構成文化財となったのですから、公開の機会が増えるといいなと思います。

以上、青葉でした。

ドライドック見学ツアー

2016年11月3日(祝)9時30分~16時(荒天中止)
URL:http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0140/event/drydocktour2016.html

青葉写真館
本文で紹介できなかった写真たち

見学後に酒保「伊良湖」で昼食






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