鎮守府新聞ワレアオバ│Naval District Newspaper Ware Aoba

遠征報告:縁の下の力持ちへの慰霊
2016.05.22

どうも、青葉です。

今日は海軍工作学校の戦没者慰霊祭に参ります。

昨年11月、元防衛水産業司令官のお誘いで軍艦比叡展に行く前に
「海軍工作学校跡の碑」と「海軍工作神社」を訪れました。

海軍工作学校は艦船修理や航空機整備に必要な工作術の教育機関でした。

工作術は当初は「船匠術」の名称で
機関学校(工機学校)で教育が行われていました。

しかし昭和に入ったころから
溶接や水中作業等の新しい技術分野が開拓されたり、
潜水艦や航空機などの新兵器の登場により
従来の艦船修理技術のみでは対応しきれなくなり、
それらを総合的に含めた「工作術」が誕生します。

さらに戦争が始まると、
機関学校(工機学校)では本務である機関術要員の大量育成が必要となり、
工作術育成環境が整えられなくなったため、
昭和16(1941)年4月、久里浜の地に工作学校が開校しました。

艦これ的にはダメコンこと「応急修理要員」の妖精さんたちの
養成が行われたと言えばわかり易いでしょうか。

(画像引用元:艦隊これくしょん -艦これ- 攻略 Wiki)

当時の工作学校は、さながらに大工場のようであったそうです。

縁の下の力持ちという性質上、目立った戦果があるわけではありませんが、
学校では当時としては画期的な研究がなされており、
江田島の海上自衛隊第1術科学校や大和ミュージアムに展示されている
前例のない翼を持つ潜水艇「海竜」は工作学校で試作されました。

こちらで教育を受けた方々は工作兵として戦場に向かい5,125名が戦死。
研究の成果は戦後、民間の企業に引き継がれた、といわれています。


「海軍工作学校跡の碑」で毎年5月に慰霊祭が行われていることを知り、
具体的な日時の情報を探っていたのですけど、意外なところから知ることが出来ました。

久里浜観光協会

観光という言葉に微妙な違和感を感じつつ、慰霊祭の行われる久里浜公園へ。


さすがに馬門山ほどに参列者があるわけではなく、
礼服を着た参列者の他に久里浜観光協会の職員さんたちがチラホラ。

そんな中に見覚えのある方が……
先日レポートしました海軍酒場ヨーソロへお誘い下さったO氏がいらしていました。

O氏は各地の慰霊祭に参列したり、旧軍の軍人の方々と交流したりととてもアクティブな方です。
今回は某軍艦の元乗組員さんと会うために東京に出てきたので
こちらにも足を運ばれたとのこと。

やがて青葉の知己である元防衛水産業司令官も合流。

……慰霊祭に参列の際は最低でも襟付きの服装が必要です。
(青葉も一応着てましたけど)




軍艦旗の掲揚で慰霊祭が始まりました。


式次はこのような感じでした。
書かれている紙に時代を感じますね。


慰霊祭は神式で執り行われ、神主さんは八幡神社の方だそうです。
八幡神社では戦後に工作学校から移設された海軍工作神社を敷地に奉っています。


「海軍工作学校跡の碑」のある公園は周囲に小学校や近くの高校のグラウンドがあり、
公園で遊ぶ子供たちは慰霊祭とかお構いなしに遊んでいますし
子供たちの嬌声や運動部の高校生の掛け声が聞こえる中で行われる神式の儀式は
なんと言うか、そこの空間だけが隔絶された雰囲気を感じました。



一通りの式次を終え、軍艦旗の降納で慰霊祭は終わりました。

青葉としては戦没された方々の御霊の安寧を心より祈るばかりです。


慰霊祭が終わって雑談していましたら、
市長代理として参列されていた久里浜行政センターのセンター長さんからお声掛けを頂きました。

見慣れない青葉たちがどういう関係で来たのかと尋ねられたのですが、
O氏は某海軍系交流団体の会員ですし、元防衛水産業司令官は言わずもがな。
あれ……?青葉が一番不審人物?
(一応海軍の歴史を勉強している者ですと名乗りましたけど)

工作学校の慰霊祭が久里浜観光協会の主催になっているのは
どうも横須賀の遺族会が昨年度に解散した影響があるようです。
主導する団体が無くなってしまったので観光協会で代わりをしている。
そんなニュアンスのお話でした。

馬門山の墓前祭は横須賀水交会等、5団体の主催となっていますが、
地域である大津地区の観光協会、町内会、福祉協議会が入っています。
(あとひとつは隊友会横須賀支部)

工作学校慰霊祭の今後についても水交会へ打診を行なっているようです。
慰霊祭の継続はどこも頭を悩ませている案件ですね。

せっかくだからと参列者の方々が歓談されている場にどうぞとお誘いを頂き、
お話をさせていただきました。

参列者のひとりの方は戦時中、横須賀工廠へ勤労奉仕に出ていて、
空母「信濃」の進水の際(?)船体を6号船渠の壁面にぶつけたらしく、
大きく壊れている壁を見たという、初めて聞きました!なお話を伺いました。

ご父君が空母「赤城」、戦艦「山城」で工作兵をしていたという方が
「父の手記があるので、よければ写しを送るよ」と仰られ、
図々しいですけどお願いさせていただきました。

その方の話によると、
工作学校関連の遺品や資料などは
いずれ久里浜行政センターに預ける手はずになっているとのことです。

横須賀に軍港博物館のような施設があれば、そこで一括管理できるんでしょうけどねえ……
(計画はあるらしいんですけど)


本日は貴重な体験をさせていただきました。
以上、青葉でした。

旧海軍工作学校戦没者慰霊祭

久里浜観光協会・くりはまニュース
URL:https://docs.google.com/viewerng/viewer?url=http://kurihama.info/images/news28-05.pdf


Next「遠征報告:艦内神社の本社巡り(戦艦武蔵)

↑ PAGE TOP