鎮守府新聞ワレアオバ│Naval District Newspaper Ware Aoba

遠征報告:観音崎砲台ツアーに参加しました
2016.10.09

※今回は天候等の影響で、手ブレ写真が多いですが、そのまま掲載します。

どうも、青葉です。

観音崎公園パークセンターが募集していた
『観音崎砲台ガイドツアー』に参加することが出来ました。

案内人は東京湾要塞研究家のデビット佐藤氏。
横須賀の軍事遺構巡りのたびに参考にさせていただいている
東京湾要塞』の運営をされています。

前日から生憎の空模様でしたが、問い合わせたところ予定通り実施するとのこと。
ならばと、集合場所の観音崎公園パークセンターへ。


こちらは元々は旧第2火薬庫と呼ばれる建物でしたが、
昭和57(1982)年から観音崎青少年の村という野外キャンプなどが行える施設の一部として
集会室などに利用されていました。

調べてみると1泊600円くらいから泊れたみたいですね。

観音崎青少年の村は財政難を理由に惜しまれつつも、平成23(2011)年3月31日に閉鎖。
施設管理者だった神奈川県は横須賀市への移譲も検討されたそうですが
市も財政難のためお断りしたそうです。

その後、どこをどういう予算が出たのか、
改装されて今年の1月4日にパークセンター(公園管理事務所)として
リニューアルオープンしたばかりだそうです。

青少年の村のときには煉瓦の上に白いモルタルが塗られていたそうですが、
歴史的建造物の特色を生かそうと剥がしたとのこと。


ちなみに周囲には同じように火薬庫時代の建物が2棟残っていますが
残念ながら活用する方針がたっていないようです。

受付を済まし、まずは東京湾要塞についてのレクチャーを受けました。


日本の砲台建設の歴史は江戸時代末期に始まります。

江戸時代の砲台建設は黒船来航が原因でしょうと短絡的に考えてしまいがちですが、
幕府の海防政策は文化7(1810)年に、
会津藩に相模、白河藩に安房・上総の防衛を命じたことに始まるそうです。

年号や西暦だけ出してもピンとこないのかもしれませんが、
ペリー提督の黒船来航は嘉永6(1853)年なので、それよりも40年も前のことです。

まあ結果的に、この防衛体制では黒船を追い返せなかったのですけど。

黒船来航で慌てた幕府は
江戸の最終防衛ラインとして品川沖に台場(現在のお台場)を建設。
しかし、開国により海防の必要性が薄れ、防備体制は縮小。
明治維新により払い下げられたりもしたそうです。

信じられないことですが、
明治維新前後は海防政策が無い状態だったそうです。

状況が一変するのは欧米列強によるアジア進出に伴う国力増強が唱えられるようになってから。
山縣有朋がフランス軍事諮問団に海防策を諮問し、陸軍教師首長マルクリーが沿岸防御方案を提出。

これを受けて明治9(1876)年に陸軍省の予算流用で建設を開始するも西南戦争により中断。
改めて明治13(1880)年5月 観音崎第二砲台、続いて第一砲台を建設開始。
これが日本初の西洋式砲台となります。

東京湾の要塞化はその後も続けられ、
大正期には砲の性能が上がって射程が伸びたことにより、
三浦市の海岸線にも砲台が建設されます。

最終的に三浦28箇所、房総7箇所が建設されとのこと。

その後の国防意識の変化や関東大震災の被災などもあり、
太平洋戦争までにほとんどが廃止されますが、
ごく一部は終戦まで機能していたそうです。


観音崎は東京湾口の迫り出したところですので、
多数の砲台と堡塁が作られました。

堡塁というのは砲台を守るための防御用の陣地のことです。

観音崎砲台配置図

※上図はクリックで拡大表示できます(転載可。その場合は署名を残すこと)

ざっと羅列すると……

・第一砲台
明治13年6月起工
大正2年に廃止

・第二砲台
明治13年5月起工
大正12年関東大震災で被災
後に廃止

・第三砲台
明治15年8月起工
大正12年関東大震災で被災
後に廃止

・第四砲台
明治19年:起工
関東大震災で被災するも終戦まで使用
→敷地は現在海上自衛隊が管理

・大浦堡塁
明治28年起工
大正2年廃止
→現在は戦没船員の碑が建立

・腰越堡塁
明治28年起工
大正2年廃止

・南門砲台
明治25年起工
大正12年関東大震災で被災
後に廃止
→現在は観音崎自然博物館がある

・三軒屋砲台
明治27年起工
大正12年関東大震災で被災
修復するも昭和9年廃止

このほかに旧第三砲台と呼ばれる遺構がありますが、
海上自衛隊が外国貴賓船の東京湾入航の際に礼砲を撃つための砲台が置かれています。

現代の日本では唯一の固定砲台じゃないでしょうか。
陸自に無くて海自にあるというのも少し不思議な感じもしますけど。

自衛隊が使用している場所は詳細不明ですが
それ以外の場所は比較的保存状態の良い軍事遺構として残っています。

とまあ、だいたいこのようなレクチャーでした。


レクチャー後は歩いて10分ほどの京急観音崎ホテルへ移動。


途中にある「係船場」と呼ばれる場所に寄りました。
先の灯台のような柱のあるところまで桟橋があってトロッコで荷揚げをしていたそうで、
手前の岸壁にはレールを敷設した痕跡が残っています。
観音崎海水浴場を作る際に桟橋部分は壊してしまったそうです。

国土地理院に残されている終戦翌年(1945年2月)の航空写真を見ると……
確かにつながっていますね。


京急観音崎ホテルです。
今回のガイドツアーではここで昼食。

こちらでは昨年あたりから新しい名物として、「観音崎砲台カレー」を売り出しています。

ライスと、上に乗っているスペアリブで砲台に、周囲のジャガイモやニンジンを砲弾に見立ています。
案内人の佐藤氏も監修に携わっているのだとか。

お値段1900円。
……あれ? このツアーの参加費って2000円だったんですけど。
ほぼカレー代という事ですか。

なかなか美味しいカレーですので、機会があればぜひとも食べてみてください。


さて、お腹を満たしたところで、とうとう砲台跡見学に向かいます。

まずは横須賀美術館の裏手から上がっていきます。
横須賀美術館の屋上は展望台となっていて、無料の双眼鏡で東京湾を眺めることが出来ます。

遠く東京湾アクアラインの換気施設「風の塔」が見えました。
シン・ゴジラはあの辺りから始まるんですよねえ。

まずは三軒屋砲台へ。

植物に埋もれて痕跡が解りにくいですが、十二センチ速射加農砲2基が設置されていたそうです。


そして二十七センチ加農砲座。
これと同じものが4つ並んでいました。


この部分は弾室と言うそうで、
砲撃の際には連続して行えるように弾薬庫から搬出した砲弾をここに並べるだそうです。



迷彩や伝声管、番号が見えますね。


砲台と砲台の間には、半地下の砲側弾薬庫があります。
入口は封じられていますが、内部はこのようになっているそうです。


階段と通路側を隔てるように落下防止の鉄柵が設けられていたそうですが、
戦後の物資不足の折り、軍が解散して立ち入りを制限する者が無くなったため、
侵入者により剥ぎ取りが行われた痕跡だけが残っています。


砲台の一番左脇には司令部の付属室があります。


普段は立ち入り禁止となっているのですが、付属室の上にある観測所跡へ上がらせてもらえました。

今は野ざらしですが『丸出山砲台観測所 (佐世保市)』の遺構のように
鉄製の屋根があったのではないかとのこと。


煉瓦の円柱は測遠機台座。


次の箇所へと移動する途中に階段がありました。
どうやら後述する見張所へ続いていた階段のようです。


特別に掩蔽部(シェルター)へ入れていただけました。


わりときれいに残っていることに驚きます。


道の両脇にある石柱は、門柱だったもの。


見張所。
木々が覆い茂って何も見えませんけど。
先ほどの階段は砲台側からこちらへと続いていたみたいですね。



腰越堡塁

こちらには公園として整備されたときに
『うみの子とりで』というアスレチック遊具が設置されていますが
ところどころに痕跡が見て取れます。


砲台跡。
9センチ加農砲が2門設置されていました。
雨の後で滑るため上がれませんでしたが、
砲座部分にはコンクリートの床があるそうです。


砲台左側の地下掩蔽部。
今は埋められてしまっています。


砲台右側の正面掩蔽部。
こちらも埋められてしまっています。


堡塁を囲む土塁へ上がる階段は当時のままです。


土塁から堡塁を見下ろすとこういう感じですが、遊具の主張が激しい……



腰越堡塁から大浦堡塁へと向かう途中、切り通しの上を通ります。

切り通しは資材運搬通路として作られたそうですが、現在は埋もれていて向かうのは困難ですね。

橋の上から写真を撮ってみましたが、露出している地層がすごいですねえ。



大浦堡塁


こちらは現在は「戦没船員の碑」が建立されており、
堡塁としての遺構は壁の一部と階段の一部のみとなっています。

先の大戦時に亡くなられた船員の方々の慰霊は大切なことではありますが、
このような形で碑が建てられたことはやや残念な気もします。



第三砲台


専用のトンネルを通って行った先にあります。
二つの砲座に二十八センチ榴弾砲2門づつ計4門が設置されていました。

右側の第一砲座は比較的原形を留めていますが、
左側の第二砲座部分は公園整備で見晴らし台を作る際に消失してしまいました。


左右の砲座の間には地下弾薬庫がありましたが、これも埋められています。


弾薬庫から砲弾を上げるための
揚弾井という井戸も残っていますがこれも埋められています。

残存する遺構部分は自然に飲み込まれている感が素晴らしくもあります。



第二砲台

管理番号上は二番目ですが、観音崎では一番最初に起工された砲台です。
といっても、次の第一砲台は翌月起工ですし、竣工は同時のようですけど。

緩やかな坂を階段のように段々に建設された6基の砲台に
二十四サンチ加農砲が各1門、計6門が設置されていました。
第四砲座から第六砲座は取り壊されて、
現在は東京湾海上交通センターが建てられています。


第一砲座の脇にはトンネルがあります。
下の道路と繋がっていて当時は砲台の入り口となっていたと思われますが、
現在は老朽化による落盤の危険があるとして、
東京湾海上交通センターの関係者以外は通行禁止となっています。


このトンネルの中に第一砲座の砲側弾薬庫があるため
今回は三分間だけ付く照明を付けて見学させてもらいました。
比較的珍しい洞窟式弾薬庫だそうです。


弾薬庫から砲座に弾薬を上げる揚弾口。
フェンスで入れないようにしてありますが、10年程前までは入れたそうです。


第一砲座正面の謎のコンクリート塊。
案内人の佐藤氏も観測機器の台座かも知れないが、なんだかわからないとのこと。


第三砲座の砲側弾薬庫に入れて頂きました。

先ほどの三軒屋の掩蔽部も状態が良いと思いますが、こちらは本当に煉瓦がきれいです。

奥に進むと弾薬室が2部屋。
入り口の横に明りを置くための開口部があり、
当時はガラスで仕切って火の粉が飛ばないようにしていたとのことですが、
ここはガラスが残ってました。
※でも写真撮ってない


揚弾口から外の光が見えます。

弾薬庫から出て、東京湾海上交通センターへ。

センター側面に第四砲座の一部が残されていました。
といってもコンクリートで埋められていますが。

弾室と写っている佐藤氏のいる辺りに
砲座正面の胸檣という部分が、方向を横にされて残されています。


埋められた砲側弾薬庫と揚弾口跡。



最後は第一砲台。


中央に地下弾薬庫を置いた扇形に二つの砲座が建設され、
二十四サンチ加農砲が1門ずつ設置されてました。

砲座左側には掩蔽部がありますがコンクリートで埋められています。


右側の斜面には観測所があるそうですが、上がるための階段が埋もれているため見学は出来ず。


ここもやはり地下弾薬庫は埋められています。


地上部分はトンネルのようになっていて、左右の砲座行き来できるようになっていますが、
2箇所ある揚弾井は埋められています。


煉瓦の上にモルタルが塗られていて、ところどころ剥げ落ちています。
どうしてモルタルを塗っていたのか佐藤氏に尋ねたところ、
煉瓦を風雨から守る事で耐久性を上げるためではないかとのことでした。

こちらでガイドツアーは終了。

やはりただ見るだけではわからないところも
案内があるだけで随分と理解が深まりますね。

このガイドツアーは半年に一度くらい行われていますので
ご興味のある方は観音崎公園のサイトか、
佐藤氏の東京湾要塞のサイトをチェックしてみてください。

今回は少し写真が残念でしたので、折りを見て改めて巡ってみたいと思います。

以上、青葉でした。

観音崎砲台ガイドツアー

第2回:10月9日(日)11:00~15:00
集合場所:観音崎公園パークセンター(旧青少年の村)
参加費:2000円(ランチ付)
http://www.kanagawaparks.com/kannon/event/20160908164248.html

青葉写真館
本文で紹介できなかった写真たち

夕暮れの横須賀港

2号ドックに掃海艇が入渠していました。

潜水艦の自衛艦旗降納の様子

電灯が付きました。


酒保「伊良湖」の「伊良湖食堂」へ




再び横須賀港へ

はいふりBD6巻のジャケットの真似をするおじさん


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